霧谷 海兎のキリトリセン

お金や投資を中心に、さまざまなことについての知識・経験・思考を共有していきます。

他人に説明することの難しさ

こんにちは、霧谷 海兎です。昨日、友人と話していたところ、「他人に何かを説明することは難しい」という話になりました。今日はそのテーマについて話そうと思います。

 

分かりやすさ至上主義

分かりやすい話をする人は大衆に好まれます。テレビでも、経済であったり政治に関して、要点をまとめて分かりやすく説明する(とされている)人がいたりしますね。自分が分からない物事を分かりやすく教えてくれる人の存在はありがたいかもしれません。しかし、こうした話を鵜呑みにしてしまうことには2つのリスクがあります。

 

(1)正確さを犠牲にしている場合が多い

(2)語り手の主観が入ることがある

 

1つ目は、分かりやすさの為に正確さを犠牲にすることです。サッカーのルールに関して説明するとします。その際「2チームに分かれて、ボールを相手のゴールに入れれば1点、合計点の多い方が勝ちのゲームだよ」と言えばわかりやすいです。しかし、この説明では正確さに欠けますね。

 

2つ目は、語り手の主観が入ることがあることです。例えば日本の歴史を分かりやすく説明してくれる人がいたとします。彼は日本人で、とても愛国心が強いとします。彼は歴史について詳しく知っていますが、愛国心が強い故に日本の歴史の悪い点については全く語りません。知識があっても、余計な主観が混じったり、意図的に一面的なものの見方しか示さない場合、その分かりやすさに意味はあるのでしょうか。

 

分かりやすさと正確性

もちろん、分かりやすいことは重要です。例えば、あるボードゲームについて説明するとします。その時に、何の工夫もせず、ただルールを1から100まで説明するだけでは、聞き手はあまり理解できないでしょう。

 

正確であることや、細部が存在することを示すことは大事ですが、そこに固執して全体観を示すことができないのもまた問題です。

 

「木を見て森を見ず」でも「森を見て木を見ず」でも説明としては不十分です。

 

分かりやすさと正確性は一見トレードオフに見えるかもしれません。しかし、語り手の技量次第では両立し得ると僕は思います。

 

例えば先ほどのボードゲームの例に戻ります。確かに存在するルールをすべて口頭でまとめて説明するだけでは、理解しづらいでしょう。一方で、まず大まかにどのようなゲームかを説明して全体観を理解してもらった後に、全体を構成する細かなルールや仕組みについて説明していく。疑問があれば質問してもらい、分からないところを改めて教える。

 

こうすれば、全体観だけを説明するだけ、ルールだけを単に列挙するだけよりも遥かに理解しやすく、加えて細かい部分までも理解できることになります。

 

森を見た後に木を見る」ような説明が、分かりやすさと正確性をある程度両立するために必要なのではないでしょうか。

 

おわりに

今回は語り手側の話をメインに、他人に何かを説明することの難しさについて話しました。ですが、日常において、全ての事柄に分かりやすさと正確性を求めることは難しいですし、時間も精神もすり減ってしまいます。

 

時には、全体観だけを把握して「細かいことは今は分からない」と割り切ってしまうのも手だとは思います。一番良くないのは、全体観だけを知ってすべてを把握した気になることでしょう。

 

極端な話をすれば、サッカーがどんなゲームかを知ったところで、ボールの蹴り方を知らなければサッカーをすることはできないでしょう。にもかかわらず「俺はサッカーを知っているからサッカーを上手くできる」なんて言っている人がいたら頭おかしいと思いますよね。

 

上の例は極端ですが、日常において分かりやすい説明を聞いて分かった気になっていしまうことはよくあることです。

 

語り手であるときに、どのように説明するかも重要ですが、自分が聞き手の時に、どう聞き、それをどう生かすかのリテラシーを持つことも大事ではないでしょうか。

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